KEENが出来るまでの道のりと
KEENへの想いを綴ったストーリーです。
2004年9月14日・・・私、倉田和俊は、KEENのオーナーとして自由が丘に理容室をオープンしました。
1973年に理容師の3代目として横浜に生まれ、とても身近に理容というものを肌で感じて来ました。幼い頃から親には“理容師になれ”とか“この店を継げ”とは、一度も言われたことがなく、自由な学生生活を過ごしていました。
ちなみに両親は強制的に理容師にさせられたので、子供には自由にさせたかったのだと思います。現に弟は獣医大学を出て公務員となり、北海道の保健所で働いています。
中学の時、お金が欲しくて無理を言ってお店で働かせてもらいましたが、一日中立っていることの大変さがわかり、とてもこの仕事は自分には無理だなと思うようになってきました。
ところが、高校の終わり頃から、自分で出来る仕事というものが自分には合っているのではないかと思い始めました。父の努力している姿や父がお客様から必要とされていることを目にし、また、感謝される仕事なんだと知り、理容に対する見方が変わってきました。
考えた末、父に相談すると「中途半端ではダメだ。今いるスタッフと同じように専門学校に行って、帰ってきたら店を手伝い、土日も朝から働くことが条件」と言われ、理容の仕事を目指すことになりました。
専門学校(横浜商業高校理容科)に入学し、一年を過ごしました。平日は学校が終わると、そのまますぐお店に出て、営業をし、土日は朝から夜まで働き、その後練習の毎日でした。この頃から理容師という職業はこんなに頑張っている職業なのに、なぜ社会的認知度が低いのだろうと思い始めました。
ある知り合いの人の息子さんが小学生の頃、「○○くんは将来、床屋さんになるから、勉強は出来なくても、いいんだよね」と言われ、怒った。その知り合いの方は先生に文句を言ったそうです。「息子が勉強できないのはしょうがないし、そのことを言われるのは別に文句はないけれども、私の職業をバカにするのは許せない。他の人の何倍も努力しているのだから。」と言ったそうです。
私もこの話を聞き、とても腹立たしくなったのと同時に、まだまだ、認められていないなと思いました。しかし、このことがきっかけとなり、より一層自分のなかで夢への階段に向かう気持ちを強めていったのでした。
専門学校も半年が過ぎ、そろそろ就職を考え出し、自分はどういう理容師になりたいのか模索している頃でした。もちろん、男性の基本のスタイルもしたい、流行のスタイルもしたい、ヘアーショーや講習、撮影、コンテストでも日本チャンピオンにもなりたい、そして、理容師だから女性の髪も素敵にしたい・・・多くのことがしたいと思うようになりました。そして、前回書いたように理容師という頑張っている職業を世間に知ってもらいたい、『理容師のイメージを変えられる理容師へ』、これが自分の中で理容師になって一番叶えたかった夢です。
そんな時、専門学校の先生から「サインポールのこちら側」という理容師の世界チャンピオンが書いた本を借りました。これが、“世界チャンピオン・田中トシオ先生”との出会いでした。本を読んでいくと、人よりも器用ではないことや、努力をする大切さ、夢ではなく目標にすることの大切さを知りました。自分のなかで衝撃が走りました(俗にいうインスピレーション、これは本当です)。一瞬にして、この人のところで働きたい、この人の生き方を真似したい、そう思うようになり、ただ、気持ちは先走るばかりでした。
世界チャンピオンの田中トシオ先生の元で働かせてもらおうと思った私は、さっそく父に頼み(同じ全国の講師仲間なので)、連絡を取ってもらいました。しかし、その時点で、田中先生のサロン”髪ing”はほぼ定員となっていて、入れないかもしれないと言われました。それから、2日後、連絡がきて、面接をしてくれるということでした。とても嬉しくなり、もう働いている姿を想像していました。
面接するところは、池袋の喫茶店。今でも忘れない・・・黒いロングコートを身にまとい、背はあまり高くないのですが、オーラが漂っている。話は”髪ing”のこと、教育システムなどでした。そして最後に「自分の気持ちで返事をしなさい」と。自分の気持ちを代弁するように父が「本人はやる気があるから入りたい」旨を伝えましたが、帰ってから返事をしなさいとのことでした。
逸る気持ちを抑え家路に着くのでした。
翌日、早速先生へ連絡をいれると「面接をした人はこちらからは断らないよ」ということで、内定が決まりました。私は、自分が技術者になっていく姿を想像していました。
翌年春になり、とうとう入寮の日を迎えました。さわやかな小春日和のなか、西武池袋線の保谷駅を降り、”髪ing”へと向かいました。そこは、とてものどかで、新しい人生の門出を祝うかの如く、やわらかい日差しが私を暖かくむかえているようでした。
早速、寮に着くと、そこは4畳半の二人部屋。同じ部屋になる先輩が寝ていて、ようやく起きたところでした。その先輩こそ、後に私が配属された店舗の店長になる人で、”髪ing”の中でも仕事がとてもうまく、周りから一目置かれる人でした。実はこの人は、半年前のコンテストで私が会った初めての”髪ing”スタッフ(むこうはもちろん知りませんが)で、素晴らしいヘアスタイルを作り優秀賞に入っていて、とてもかっこいいと思った人でした。”髪ing”の人は、なんてすごいんだろうと思った瞬間でした。そして、その人が寮で同部屋だったのです。ここでもまた、私のこれからの理容師人生を左右する人に巡り合えた瞬間でした。
“髪ing”に入り、新人研修も終わり、早速シャンプーが待っていました。”髪ing”のシャンプーテストは1ヶ月で50人練習というノルマを達成すると、テストが受験できます。しかし、そこで落ちてしまうと、その月にまた10人練習すればよいのですが、次の月になってしまうと、また50人練習というノルマを達成しなければいけないのです。かなりやる気マンマンの倉田は半月でノルマをこなし、意気揚々と受けました。しかし結果は無残にも不合格でした。
その後、シャンプーテスト合格に向け、気合が入った倉田に事件がおきました。新宿店配属だった倉田は、同期のスタッフと、代わる代わる先輩をシャンプーしよう(忙しくない時は、営業中もシャンプー練習をさせてくれた)と約束していたにもかかわらず、同期のスタッフは立て続けに練習していたのです。それを知ってしまった私は烈火のごとく怒りました(あとから反省して大人げないと思った私ですが・・・)。練習は、当時の店長の指示だったのですが、シャンプーに命をかけていた倉田は、あろうことかその店長にも、くってかかったのです。
よく考えれば、社会人として、一番下の者が、その店を管理する店長にケンカ腰に話すなんて、まだまだ子供だったというか、社会人になりきれていなかったのです。ただ、そのくらい早くシャンプーに合格し、お客様にシャンプーして喜んでいただきたい、早くお店に貢献したい気持ちの現れだったのでした。まさに反省・・・後にこの逸話はひそかに語り継がれました・・・。